『九龍ジェネリックロマンス』という作品には、いくつかの“見過ごせない違和感”が潜んでいる。
それは、登場人物たちが何気なく発する言葉の端々であったり、いつまでも崩れない風景の中に紛れていたりする。
中でも、その違和感をもっとも体現しているのが、タオ・グエンという男だ。
物語のなかでは脇役のように佇みながら、しかし彼の目線が届くところには、常に“物語の裏”がある。
彼が何者で、なぜこの街にいるのか。
そして、彼が知っていて他の誰も知らないことは何なのか。
この記事では、『九龍ジェネリックロマンス』におけるタオ・グエンの正体を軸に、その周囲に広がる九龍の謎を読み解いていく。
1. タオ・グエンとは何者なのか──初登場から漂う“違和感”
タオ・グエンが初めて登場するのは、九龍の路地裏にひっそり佇む「喫茶金魚」のシーンだ。
そのとき彼は、まるでそこに“ずっといたかのように”自然に登場する。
視聴者も読者も、それを疑うことなく彼を「街の一部」として受け入れる──だが、そこに違和感は確かにある。
・工藤との旧知の関係と、令子との初対面
グエンは、工藤発とは旧知の仲という体で語られる。
会話のやり取りにもくだけた親しさがあり、それがごく自然に映る。
しかし注目すべきは、鯨井令子に対しては“妙な距離感”を保つ点だ。
初対面であるはずの令子に、彼はどこか“知っている”ようなまなざしを向けている。
そして、その距離感は物語を通してずっと変わらない。
言葉にしない違和感が、彼の態度には宿っている。
・物語初期に提示される“無意識の違和感”
タオ・グエンの存在は、最初から読者に“明確な違和感”を与えるものではない。
むしろ「空気のように馴染んでいる」のだ。
だが、注意深く見ていくと、彼だけがやけに物語の中心に「関わらないようにしている」印象がある。
それはただの脇役の立ち位置ではなく、“意図して距離を保っている”ような在り方に見える。
・読者・視聴者に植えつけられる「本当にただの脇役か?」という印象
グエンの登場シーンは決して多くない。
だが、彼のセリフや立ち位置は、いつもなぜか「説明できない引っかかり」を残す。
これは演出や台詞回しの技巧だけでなく、作中の人物配置においても彼が“特別な枠”に置かれていることを示している。
視聴者の多くが、「グエンって何者なんだろう」と思いながら読み進めるのは、意図された構造である。
・喫茶金魚という空間の特異性──グエンの“居場所”である意味
もうひとつ注目すべきなのは、彼が所属する喫茶店「金魚」そのものの構造である。
金魚は、物語上の“日常の象徴”のような空間であり、令子と工藤が言葉を交わす“交差点”として機能している。
だが、その空間にはどこか不自然な静けさがある。
世界の歪みや、過去と現在の重なりが露見する前提として、喫茶金魚は舞台装置のようにそこにある。
そして、その中心に立つのが、タオ・グエンなのだ。
彼は、ただコーヒーを淹れているだけの人物ではない。
“彼の視線が通っている場所”にこそ、物語の核心が少しずつ浮かび上がっていく。
2. グエンは一人ではない?──“複数存在”説をめぐる考察
『九龍ジェネリックロマンス』の読者の間で、ある時期から強くささやかれるようになった仮説がある。
それは、「タオ・グエンはひとりではない」という説だ。
この仮説は、あるシーンをきっかけに一気に現実味を帯びる。
・仮面のグエンと喫茶店のグエン──姿は同じ、人格は異なる
物語の中盤、令子と工藤が“外の世界”に接触する中で、仮面をかぶった人物が登場する。
その顔──あるいは体つきは、紛れもなく喫茶金魚のグエンと同じ。
だが、その人物はグエンのように冗談を飛ばすこともなければ、感情の揺らぎも見せない。
まるで、観察者のように無表情で、目的のために動く機械のようだ。
この描写が、「同一の容姿を持ちながら、異なる人格を持つ複数のグエンが存在する」という考察を裏づけていく。
・時間軸のずれと“過去を知る者”の異常性
グエンの違和感は、単なる性格の奇妙さや言動の曖昧さではない。
彼が語る言葉の端々からは、“時間のずれ”のようなものが浮かび上がる。
たとえば、まだ起きていない出来事を前提とするような台詞。
あるいは、令子の記憶にない出来事を「確かにあった」と断言する場面。
こうした断片は、彼が物語の通常の時間軸に“同期していない”ことを示している。
・語られないことの多さこそが「鍵」になる
グエンについての情報は、物語内でほとんど語られない。
だがそれこそが、彼の存在が“読むべき対象”であることを物語っている。
わかりやすい説明や背景が与えられないことで、読者は自然と“グエンの内側”を考えようとする。
そして、そこには意図的に設計された“想像の余白”がある。
「語られないことの重さ」が、グエンの輪郭をかたちづくっているのだ。
・「それでも彼は彼だ」という物語上の違和感の肯定
たとえ姿が同じで、複数のグエンが存在したとしても──物語内では彼らは明確に“分けられない”。
どのグエンが本物で、どれがコピーなのか、それとも“全部が本物”なのか。
この問いに、明確な答えは提示されない。
むしろ、物語はその“あいまいさ”を肯定するように進行していく。
これは、視聴者や読者に「答えのなさ」と向き合うことを求める、ある種の挑発にも見える。
ひとりでありながら、ひとりではない。
違和感を抱えながら、物語の中心に立ち続ける。
それこそが、タオ・グエンという存在に課された“物語上の矛盾”であり、“九龍という街の鏡像”そのものなのだ。
3. 鯨井令子と“記憶”を共有する者──グエンの役割とは
『九龍ジェネリックロマンス』という物語は、鯨井令子の「喪われた記憶」から始まる。
だがその記憶の空白を埋める前に、読者はひとつの奇妙な事実に出くわす。
──なぜ、タオ・グエンはその記憶を知っているのか?
・「お前は鯨井Bではない」──断言できる理由は何か
物語の重要な転換点で、グエンは鯨井令子にこう告げる。
「お前は鯨井Bではない」──その断言に、ためらいはない。
だが、問題はそこにある。
グエンはなぜ、Bが何者であり、今目の前にいる令子が「そうでない」と断定できるのか。
その判断は、ただの思い込みではない。
彼は“記憶の継続”を知っている立場にある、つまり──過去を途切れず見てきた存在だということを示している。
・記憶が改変された世界と、改変されなかった彼
令子は、作中で複数回にわたり「自分が誰なのか分からない」という感覚を語る。
そして、工藤との関係もどこかズレたまま始まっていく。
その歪みは、世界が書き換えられた結果とも解釈できる。
だが、グエンだけは“何も変わっていない”ように見える。
彼は変化に気づき、それを受け止め、なおかつ他人には語らない。
彼の沈黙は、「知っている者」としての覚悟に見える。
・“知っている者”としての苦悩と優しさ
タオ・グエンの語り口は、一見すると冷静で無感情にも見える。
だが、令子とのやり取りの中には、言葉にしにくい「距離と優しさ」が漂っている。
彼は令子を突き放すことも、過度に保護することもしない。
ただ、彼女の選択を尊重しようとしている。
その態度は、単に“情報を持っている者”の余裕ではない。
「知られてはいけない何か」から彼女を守ろうとしているようにも映る。
・記憶を通して、誰を守ろうとしているのか
グエンが守っているのは、令子の「自己認識」かもしれない。
あるいは、工藤との“再構築された関係”そのものかもしれない。
だがもっと深いところで、彼は“物語そのもの”を守っているのではないかとも思える。
記憶を知る者として、そのすべてを語ってしまえば、物語は終わってしまう。
だからこそ彼は、答えを与えず、ただ見つめている。
“知っている者”であることを苦しみとしながら、静かに場を保ち続けている。
グエンはただの記憶の保管庫ではない。
彼は記憶の外側に立ち、それを抱え続ける「観察者」なのだ。
そしてそのまなざしこそが、九龍という虚構の街に現実味を与えている。
4. 九龍の謎とタオ・グエン──この都市は誰のものか
『九龍ジェネリックロマンス』は、ラブストーリーの皮を被った、都市SFの仮面でもある。
その中心にあるのが、「九龍城砦」という舞台だ。
かつて実在したその迷宮的構造は、本作においても“時間”と“記憶”の錯綜を生む。
そして、その複雑な空間のただ中に、タオ・グエンは唯一、居場所を変えずに存在し続ける。
・九龍という都市の閉鎖性と可変性
本作の九龍は、密集する建物、規則性のない路地、そして妙に均質な日常を抱えた街だ。
しかし、その“懐かしさ”のようなものは、どこか作られた感覚に満ちている。
登場人物たちは日々を過ごしているようでいて、その空間は時間に閉ざされている。
変化するのは人間であり、街そのものは決して老いない。
この“老いなさ”を知覚している数少ない人物のひとりが、タオ・グエンだ。
・時間が止まった街と、動いている人々
「九龍は死なない」──作中で何度か示唆されるこのイメージは、象徴的でもあり、同時に不穏でもある。
この街は誰かが作った装置のように、時間を拒絶している。
そして、そこに生きる人々だけが“死に向かって変化”している。
その構造の違和感を、タオ・グエンは最初から理解しているように描かれる。
彼の静観的な態度には、「自分はこの世界の外側を知っている」という確信が滲んでいる。
・グエンが知っている「外側」の世界
仮面のグエンが語る断片的な台詞や、彼の視線の行方を追っていくと、彼が“別の層の世界”を知っていることが見えてくる。
それは、記憶の外側。
あるいは、シミュレーションのような構造の上に重ねられた“原風景”のようなもの。
彼の行動は、九龍の内側に留まりながらも、決して内側だけを見ていない。
そのスタンスこそが、彼を「観察者以上、介入者未満」という複雑な立ち位置に据えている。
・「見守るだけ」の存在が語られない恐怖
物語において、もっとも不穏なのは「語られない存在」だ。
タオ・グエンは、何も語らず、何も命令せず、ただ在り続ける。
だが、その在り方は時に“監視者”にも、“創造者”にも、“見届け人”にも転化する。
彼が黙ってそこにいることこそが、物語の緊張感の源になっている。
その存在がなぜ必要だったのか──その問いこそが、本作が投げかける最大の謎かもしれない。
「九龍の正体は何か」よりも先に、「グエンはどこから来たのか」を問うべきなのかもしれない。
彼の沈黙と視線の先には、この街が内包する“終わり”と“始まり”が重なって見えてくる。
5. タオ・グエンの正体にたどり着くための手がかり
『九龍ジェネリックロマンス』が仕掛ける最大の謎のひとつが、タオ・グエンとは結局「何者なのか」という問いである。
だがこの問いは、ストレートな回答を求めるには適さない。
本作が描くのは、“正体”ではなく“存在の在り方”そのものであり、そこに至るための断片は、物語のあちこちに配置されている。
この章では、そんな“気づく者だけが気づく手がかり”を拾い上げていく。
・名前の意味、外見、使われる色彩
まずは名前。
「タオ・グエン(Tao Nguyen)」という名前は、ベトナム系の名前だが、日本語文脈においては異国性の象徴としても機能している。
“タオ(道)”という音には、どこか哲学的な含意が宿る。
そして、“道”を歩む者であり、道筋を知る者であるという暗喩にも取れる。
また、作中で彼に用いられる配色──薄墨、グレー、青みがかった影──これらはすべて“境界”の色でもある。
彼は色濃い感情の外に立ち、彩度を下げた場所から物語を見つめている。
・グエンと蛇沼の共通点と対比
もうひとつの手がかりは、蛇沼という存在との関係性にある。
蛇沼は、過去を知りながらも表には出てこない人物であり、グエンと同様に「語らない者」として配置されている。
だが、彼はどこか“情”に引きずられている。
それに対してグエンは、情も過去も踏まえた上で、ただ傍観する存在として描かれる。
この“知っている者”同士の対比は、彼らが同じ構造の上に立っている可能性を示唆する。
・アニメ版の演出(声優演技、音響)に潜む意図
アニメ版における坂泰斗の演技も、また注目すべき手がかりのひとつだ。
彼の声には、時にあたたかさが、時に無機質な距離が混ざる。
言葉の抑揚は大きくなく、むしろフラットだ。
その抑えられた演技は、グエンという人物が“演じているのではなく、生きている”ことを逆説的に際立たせる。
また、背景音やSEも彼の登場シーンだけ“密度が下がる”ような処理がされており、視覚と聴覚の両方で異質性を印象づけている。
・読者に託された“気づき”としての存在
『九龍ジェネリックロマンス』は、“説明”よりも“気づき”に重きを置いた作品だ。
その象徴が、タオ・グエンという存在である。
彼はすべてを知っているかのようで、何も語らない。
そして、読者が自分の記憶と感情を重ねていった先で、彼の言葉がようやく意味を持つようになる。
つまり彼の“正体”とは、読者の解釈によって輪郭が変化する、極めて能動的な存在だ。
タオ・グエンの正体は、答えではなく「問いのありかた」そのものなのかもしれない。
それは、彼がこの物語のなかで与えられた唯一にして最大の役割──「わからなさの価値」を担う者という位置づけに重なる。
まとめ:タオ・グエンという「答えのない問い」
『九龍ジェネリックロマンス』という作品は、多くを語らず、多くを示す。
そのなかで、タオ・グエンはもっとも語られず、もっとも語らせる存在だ。
彼の正体に明確な“解答”は与えられない。
だが、それはこの物語にとって重要なことではない。
彼が何者で、どこから来たのか。
彼がなぜ令子の記憶を知り、九龍の歪みを見抜いているのか。
それを知ること以上に大切なのは、“彼が沈黙を選び、在り続けていること”に目を向けることだ。
・結論よりも「問い続けること」に意味がある
タオ・グエンは、作品に明快な説明を与える装置ではない。
むしろ彼は、物語に“解けない謎”を残し続けるために存在している。
視聴者や読者が「どういうことなのか」と思い続ける限り、彼は物語のなかで生き続ける。
答えを示すキャラクターではなく、問いを持続させるための人物として配置された。
・彼の存在は、物語の“余白”である
あらゆる物語には、“語られなかった部分”が存在する。
グエンはまさにその象徴であり、描かれなかった感情、記憶、時間の断片を体現している。
彼が“ただ在る”ことは、視聴者の想像力を触発し、物語の奥行きを生む。
言い換えれば、彼の存在そのものが“余白”であり、“継続する問い”なのだ。
・視聴後、読後に残る“説明できない満足感”の正体
『九龍ジェネリックロマンス』を観終えたあと、あるいは読み終えたあと、多くの人が言葉にできない余韻を抱える。
その余韻の正体の一部が、タオ・グエンにある。
彼のような存在が、物語のなかで何も変えずに、ただ“そこにいた”という事実。
それこそが、この物語をひとつの“体験”として終わらせず、ずっと読み返したくなる気持ちを生み出している。
タオ・グエンは、答えではない。
彼は、問いのかたちをして、物語の深部にそっと佇んでいる。
その姿にこそ、この作品が語ろうとした“本当の物語”が宿っているのではないだろうか。



