1998年に放送されたアニメ『カウボーイビバップ』は、その音楽性、演出、語り口のすべてにおいて、今なお“伝説”と称される存在です。その原作・総監督を務めた渡辺信一郎が、2020年代に送り出す新たなオリジナルアニメ『LAZARUS(ラザロ)』。
この作品が登場したとき、多くのファンが思ったことでしょう。「これは、あの『ビバップ』の後継作なのか?」と。
『ラザロ』は『カウボーイビバップ』の“直接的な続編”ではありません。しかし、その奥底に通じるもの──むしろ「受け継がれてしまったもの」が確かに存在しています。
本記事では、両作品の共通点と違いを丁寧に比較しながら、『ラザロ』がなぜ“精神的後継作”と呼ばれるのか、その理由を探っていきます。
『ラザロ』とは?──近未来都市を舞台にした新たな物語
『LAZARUS(ラザロ)』は、2052年の地球を舞台にしたサイバーパンクSF作品です。都市名は「バビロニアシティ」。その名の通り、文明と欲望が錯綜する巨大なメガシティが物語の中心地となります。
物語の核となるのは、かつて“死に瀕した世界”を救うために結成された特殊チーム「ラザロ」。彼らは一度解散したものの、再び世界の存亡を賭けた謎に直面し、再結成される──という筋立てです。
原作・総監督は渡辺信一郎。そして制作スタジオはMAPPA。『呪術廻戦』『チェンソーマン』といった現代アニメの最前線を走る制作陣が集まり、圧倒的な映像クオリティを実現しています。
サスペンス要素の強いミッション型ストーリー。複雑に絡む陰謀。スタイリッシュなアクション。だがそれだけでは語れない、“人間の再生”という普遍的なテーマが物語の芯に据えられています。
共通点①──渡辺信一郎の美学と演出哲学
『カウボーイビバップ』と『ラザロ』を繋ぐ最も根源的な要素は、やはり監督・渡辺信一郎の存在です。ジャンルを横断し、形式にとらわれず、それでいて作品全体を貫く”リズム”を持つ──彼の演出は、単なる視覚的な演出を超えて、「音楽のように物語る」ものです。
『ビバップ』では、ジャズの即興演奏のようにシーンが展開し、セリフや間がすべて計算され尽くしていました。『ラザロ』でも、その“間”の美学は健在です。アクションのテンポ、静寂の挿入、キャラクターが何も語らずに背中で感情を見せる──そういった演出が、画面に余白と緊張感をもたらしています。
また、渡辺作品に一貫して見られるのは「ジャンルの再解釈」です。『カウボーイビバップ』がスペースウェスタンを、そして『ラザロ』がサイバーパンク・アクションというジャンルを素材として扱いながらも、それぞれの“型”に囚われることなく、むしろ壊して再構築する姿勢が見られます。
特定のジャンルに属しながら、どこにも属していない。その境界線上に立ち続ける感覚こそが、渡辺信一郎の作品に漂う“自由さ”であり、“寂しさ”でもあります。
共通点②──チームものとしての群像劇構造
『カウボーイビバップ』では、スパイク、ジェット、フェイ、エド、アイン──ビバップ号に乗る彼らは、まるで家族のようでいて、決して交わりきらない「個」の集まりでした。それぞれが過去に傷を持ち、それを抱えたまま共に過ごす日々。その関係性の微妙な距離感が、物語に独特の余韻を生んでいました。
『ラザロ』でも、この“寄せ集めのチーム”という構造はそのまま踏襲されています。主人公たちは、かつて一度だけ集められ、そして解散した「ラザロ」の元メンバーたち。再び集う彼らは、互いに信頼しきっているわけではありません。しかし、同じ目的のために再び行動を共にすることになります。
注目すべきは、彼らの「関係性」よりも「距離感」が丁寧に描かれている点です。友情や信頼といった言葉では語り尽くせない、もっと曖昧で、それでいて確かな“結びつき”。それが、渡辺作品に共通するチームものの核心です。
群像劇でありながら、すべてのキャラクターに「自分だけの物語」がある。そして、その断片がふとした瞬間に交錯するとき、観る者の心にも揺れが生まれます。
共通点③──音楽と物語の「共鳴」
『カウボーイビバップ』を語るうえで、音楽の存在は欠かせません。菅野よう子が生み出したジャズ、ブルース、ロックの名曲群は、単なるBGMにとどまらず、物語そのものの“もう一つの声”として鳴り響いていました。
そして『ラザロ』でも、音楽は物語と不可分な存在として位置づけられています。今作では、現代ジャズやエレクトロニカ、ヒップホップの最前線にいるミュージシャン──カマシ・ワシントン、ボノボ、フローティング・ポインツらが参加。サウンドとしての統一感よりも、“都市の息遣い”や“感情の断片”を音楽で立ち上げる手法が印象的です。
つまり、どちらの作品にも共通しているのは、「音楽が語る」という姿勢です。台詞やナレーションでは語りきれない余韻を、旋律やリズムで伝える。沈黙の中に音が入り込み、観る者の感情と共鳴していく──この構造そのものが、渡辺作品の根幹にあります。
『ビバップ』のジャズが“宇宙の孤独”を奏でたとすれば、『ラザロ』の音楽は“都市の疾走”と“再生への祈り”を奏でているのかもしれません。
決定的な違い──世界観、語りの重心、音楽スタイル
『ラザロ』と『カウボーイビバップ』は、共通する精神を持ちながらも、決して“同じような作品”ではありません。その違いは、むしろ作品の輪郭を明確にし、それぞれの魅力を引き立てています。
まず世界観。『カウボーイビバップ』は、火星や木星の衛星など、宇宙を舞台としたスペースウェスタンでした。放浪と無重力感、空虚さが常に物語を支配していました。一方で『ラザロ』は、地球──それも近未来の都市「バビロニアシティ」が舞台。重力のある世界、過密でノイズに満ちた都市空間に人間たちがひしめき合う、リアリズムの強い世界です。
語りの構造も異なります。『ビバップ』が一話完結型であり、過去と現在を交錯させながら徐々にキャラクターの輪郭を浮かび上がらせる形式だったのに対し、『ラザロ』は明確なストーリーラインを持つ連続型。ミッションが提示され、それを軸に物語が進行する点では、より“今のアニメ”の潮流に近づいていると言えるでしょう。
そして音楽スタイル。『ビバップ』では、ジャズを中心としたアナログな音楽が、過去へのノスタルジーや未練とリンクしていましたが、『ラザロ』では、電子音やインダストリアルなビートが中心です。未来への焦燥、不穏さ、そして再生への期待が、冷たい音とともに静かに鳴り続けています。
このように、ふたつの作品は“表層的には対照的”であるがゆえに、内面の共鳴がより浮かび上がってくるのです。
キャストから見る“つながり”──旧作ファンへのまなざし
『カウボーイビバップ』の魅力のひとつは、キャラクターに命を吹き込んだ声優陣の存在感でした。スパイク役の山寺宏一、フェイ役の林原めぐみ、そして彼らが持つ“声の記憶”は、ファンにとって作品そのものと不可分なものとして残っています。
『ラザロ』には、その山寺宏一と林原めぐみが再び出演しています。彼らはメインキャストではなく、あくまで脇を支える立場として登場しますが、それはまさに『カウボーイビバップ』からの“時の継承”を象徴する配役と言えるでしょう。
これは単なるファンサービスではなく、「時代は変わったが、声は残る」「物語の表面は異なるが、核は同じ場所にある」といった、監督からの静かなメッセージとも受け取れます。
また、彼らの声を聞いた瞬間、かつて『ビバップ』に触れていた観客の感情が一気に喚起される──その“記憶の導線”として、キャスティングが機能しているのです。
作品世界に直接的なつながりはなくとも、観る側の心に残っている“音”や“面影”を再び呼び起こす。そこに、『ラザロ』が「精神的後継作」として成立している理由があります。
『ラザロ』は後継作なのか?──その答えは“感触”の中に
『ラザロ』は、『カウボーイビバップ』の直接的な続編ではありません。設定もキャラクターも世界観も異なり、ストーリーの地続きで語られるわけではない。しかし、それでも多くの人が「これは後継作だ」と感じてしまう──そこに、渡辺信一郎の作品が持つ“感触”の連続性があります。
空気感、沈黙、間、そして音。誰かが誰かを救えないまま、それでも隣に立ち続けようとする姿勢。孤独を描きながら、それでも繋がろうとする意志。そうした“語られない部分”こそが、『ビバップ』を特別な作品にしていた理由であり、『ラザロ』もまた、その不完全なままの人間を見つめています。
作品というのは、物語の筋や映像美だけでなく、「なぜそれを描かずにはいられなかったのか」という衝動によって生まれます。『ラザロ』には、渡辺信一郎がこの時代に描きたかったものが、確かに刻まれている。それは、『ビバップ』がそうであったように、“何かを失った人間が、それでも生きていく姿”へのまなざしです。
だからこそ、たとえ同じ船に乗っていなくても、同じ空を見上げている感覚だけが、確かに残るのです。
まとめ:『カウボーイビバップ』の魂を継ぎ、別の未来を描く『ラザロ』
『LAZARUS(ラザロ)』は、『カウボーイビバップ』の続編ではありません。だが、それは形式の話にすぎません。重要なのは、「どんな問いを、どんなまなざしで描いているのか」という本質の部分です。
渡辺信一郎監督がふたたび描いたのは、時代や舞台が変わってもなお失われないもの──孤独と希望、過去と再生、沈黙と対話。『ビバップ』のファンが『ラザロ』に惹かれるのは、それが「似ている」からではなく、「同じ問いを見つめている」と感じられるからです。
異なる未来、異なる音楽、異なる都市。それでもなお、心の奥で共鳴する“何か”がある。それはたぶん、キャラクターたちの不器用な生き様であり、語られない思いであり、失ったものの重さに沈黙する背中なのかもしれません。
見終えたあと、言葉が浮かばない。ただ、美しさと、寂しさと、ため息だけがそっと残る──『ラザロ』には、そんな『ビバップ』の記憶を思い出させる静かな力があります。



