ラザロはなぜ「アクセル」が主人公なのか?キャラ設定と物語のカギを考察

伏線考察・意味解説
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『LAZARUS(ラザロ)』の主人公、アクセル・ジルベルトは、懲役888年という異例の刑期を持つ元受刑者でありながら、特殊チーム「ラザロ」の一員として人類の危機に立ち向かう存在です。

彼の卓越した身体能力自由を愛する性格は、物語の進行において重要な役割を果たしています。

この記事では、アクセル・ジルベルトが主人公として選ばれた理由を、彼のキャラクター設定や物語の構造から詳しく考察します。

アクセル・ジルベルトとは何者か?──『ラザロ』の主人公としての出発点

元受刑者という異質な立場

アクセル・ジルベルトは、『ラザロ』における異彩を放つ主人公だ。

その第一印象を決定づけるのは、「888年の懲役刑」という規格外の過去。

彼が科された刑罰の理由は決して重大犯罪ではなく、軽微な罪に端を発し、脱獄という選択を繰り返した果ての累積刑だった。

この設定は、視聴者に「なぜ彼がこれほどの罪を?」という社会制度への違和感を意図的に植えつける構造になっている。

つまり彼の存在そのものが、作品世界の歪みを象徴しているのだ。

身体能力と戦闘力の設定

もう一つアクセルを際立たせるのは、その肉体性能にある。

彼は都市空間を自由自在に跳躍し駆け抜けるパルクールの達人であり、密閉空間でも複数の敵を圧倒する格闘能力を持つ。

これは単なる“強さ”の演出ではない。

彼の身体そのものが、抑圧された社会秩序を破る自由のメタファーとなっている。

アクセルの戦闘は常に“対制度”であり、正義のためのものではなく、生存と自由のための闘争なのだ。

自由を体現する性格

アクセルのキャラクター性を決定づけているのは、その享楽的かつ衝動的な言動だ。

彼はしばしば仲間を困惑させる行動を取りながらも、極限状況においては不思議と“勝機”を引き寄せる。

冷静なリーダー像とは正反対の彼だが、それゆえにこそ群像劇の中で最も人間的で予測不能な“軸”として機能している。

その破天荒さが、緊張感の連続する物語において、一瞬の余白や躍動感を与えている。

こうした特異なキャラクター設定こそが、アクセル・ジルベルトを「なぜ彼が主人公なのか?」という問いの出発点に据えている。

なぜアクセルが『ラザロ』の主人公なのか?──作品構造と照らして

物語を“動かす”存在としての選定

『ラザロ』という物語において、アクセル・ジルベルトは単なる登場人物以上の存在として描かれている。

彼の決断と行動は、物語の転換点を生むトリガーであり、ストーリーを“動かす”装置として機能している。

戦闘や作戦における即興的な判断力、危機的状況下での感情的な選択——それらすべてが、プロットに緊張感をもたらす。

つまり、アクセルがいなければ、物語のテンポや予測不可能性は成立しない。

視聴者との感情的な結びつき

アクセルの主人公性には、視聴者との共鳴を生む設計が巧妙に埋め込まれている。

それは、“ヒーローではないのに主役”という逆説性にある。

彼は正義を掲げず、目的意識も曖昧で、どこか刹那的だ。

だが、それが却ってリアルで、現代の視聴者の倫理観や無力感と重なり合う。

特に、社会の枠組みに不信を持つ層にとって、アクセルは理屈より感情で“納得”できる主人公なのだ。

テーマ性との一致──自由と管理社会

物語の背景にあるのは、病を制御した未来社会と、それに対する強烈なアンチテーゼである。

ラザロ計画が人類を“救済”しようとする中で、アクセルはそれに無自覚に、しかし本能的に抗っていく。

彼の自由奔放な行動は、「人間らしさ」や「意思の力」といった、科学では測れない価値を象徴している。

この対比構造が、彼を物語の“表現装置”にしている理由だ。

こうして見ると、アクセル・ジルベルトが『ラザロ』の主人公に選ばれた理由は、単なるキャラクター人気ではなく、物語の構造とテーマの両面から必然性があることが明らかになる。

アクセルのキャラ設定が語る『ラザロ』の主題とは

ディオニュソス的存在としてのアクセル

アクセル・ジルベルトのキャラ構造は、哲学的にも興味深い。

彼はしばしば「理性」に対立する存在として描かれ、その姿勢はディオニュソス的キャラクターと表現できる。

合理性や秩序よりも、混沌と衝動、感情と肉体の動きを優先する。

それゆえ、彼の行動は周囲に混乱をもたらしつつ、逆説的に人間性の核心に迫る。

この構図は、秩序と救済を象徴するスキナー博士と絶妙な対照関係にある。

「自由」の二面性を映し出す存在

アクセルのキャラクターは、一貫して自由への欲求に貫かれている。

それは脱獄という形にも表れており、制度に収まらない彼の生き方は、単なるアウトローではなく、「自由とは何か」を逆照射するための存在だ。

自由を貫くために彼が負う孤独、その選択が仲間たちに与える影響、それらすべてが物語の厚みを支えている。

ラザロ計画との対照構造

ラザロ計画とは、人類を絶滅の危機から救うための科学的管理システムである。

対してアクセルは、それを知らずに生き、ただ自分の信じる行動原理で動いている。

その“知性ではなく本能”による対抗は、制度や技術への信頼が崩れる現代への鋭い批評性も含んでいる。

彼の無秩序な生き方は、科学の過信への警鐘として物語に配置されているのだ。

「人間とは何か」「自由と制御の関係」に強く結びついている。

彼が単に“面白いキャラ”として描かれているのではなく、作品の主題を体現する装置であることが見えてくる。

他キャラクターとの対比で見る、アクセルの「主人公性」

アクセルのキャラ設定は、作品が描こうとする未来社会の課題や倫理的葛藤を一身に背負っている。

それゆえ、彼の存在を通して『ラザロ』は単なるアクションではなく、「人間が人間であるとはどういうことか」という問いを突きつけてくる。

管理社会と自由意志の対立、その中で生きる者の選択の重み——そうしたテーマ性の軸に、アクセルは真っ向から挑む構造になっている。

彼の行動のすべてが、この問いへの応答になっているといっても過言ではない。

他キャラクターとの対比で見る、アクセルの「主人公性」

他メンバーとの性格的対比

『ラザロ』の魅力の一つは、キャラクター同士の鮮やかな対比構造にある。

中でもアクセルは、その奔放な性格ゆえに、他のメンバーの個性を際立たせる役割も担っている。

冷静な戦術家であるヤンとは、論理と衝動の対比が生まれ、作戦行動中の意思決定をめぐるやり取りに緊張感を生む。

正義感に満ちたソーヤとは、目的の正当性を巡る価値観の差異が対照的だ。

そして、沈黙と謎を背負ったリリとの関係では、アクセルの感情的な振る舞いが彼女の静かな強さを引き出している。

リーダーではないが「中心」になる特異性

アクセルはチームのリーダーではない。

命令を出すわけでも、戦略を立てるわけでもない。

それでも彼は常に場の“中心”にいる。

その理由は、彼の行動が物語上の事件を引き起こす原動力だからだ。

また、彼の不完全さ——衝動性や過去への葛藤——が、他キャラの行動や感情を引き出す。

その意味でアクセルは、“引っ張る”のではなく、“引き出す”主人公なのだ。

主人公が視点を持つとは限らない──群像劇との接続

『ラザロ』は明確な一人称視点ではなく、群像劇として構成されている。

この中でアクセルは、常に物語の中心にいながら、内面がすべて語られるわけではない。

むしろ、視聴者が彼の行動を“読み取る”構造になっている。

この設計は、彼を“語られない主人公”として成立させる。

彼がなぜ動くのかを考える余白が、物語の深みを生んでいる。

つまり、主人公とは物語を“語る”者ではなく、“揺さぶる”者でもあるという新たな定義が、アクセルによって示されている。

まとめ:『ラザロ』のアクセルは、なぜ主人公なのか

アクセル・ジルベルトは、単なる主人公というより、物語の中核を揺るがす存在として機能している。

彼のキャラ設定は、元受刑者としての異質性、驚異的な身体能力、享楽的な自由人としての性格といった層で構成されており、それぞれが物語の構造やテーマに密接に絡んでいる。

ストーリーを動かす原動力として、また視聴者の倫理観を刺激する存在として、彼以上にふさわしい人物はいない。

また、『ラザロ』の根底にあるテーマである「自由と管理社会」「人間性の再定義」「制度への問い」に対し、アクセルは唯一“感情”で応答できるキャラクターでもある。

彼が主人公であることは偶然ではなく、作品の構造にとって論理的必然といえる。

他キャラクターとの対比によって浮かび上がる彼の特異性、語られすぎない視点の設計、感情で物語を突き動かす存在としての役割──

それらが複合的に絡み合うことで、『ラザロ』という群像劇においても、彼の“主人公性”は揺るぎないものとなっている。

誰よりも自由で、誰よりも破綻していて、それでも誰よりも人間らしい。

だからこそ、アクセル・ジルベルトは『ラザロ』の主人公でなければならなかった。

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